STUDY研究活動・社会貢献
香港今昔 返還から20年の年に 香港1996、2017
山本 雅子 (MASAKO YAMAMOTO)
今回2度目の香港旅行である。初めての香港は1996年で、今から21年前。英国統治下100年を経て中華人民共和国へ権限移譲される前年である。*1
その旅行を経て私は、“暮らしている人や話されている言葉は中国系だが、香港は英国租界時代の、澳門はポルトガル統治時代*2の古い建物・町並みが点在している場所。古いものと新しいもの、西洋と東洋が混じっているエキゾチックな街。”という印象を持ち、今回もそのイメージを抱いて日本を飛び立った。
1996年香港
思い返せば、21年前に香港を旅行先に選んだ理由は、2つあった。当時、1997年に中国に返還されると香港がどう変化していくのか先行き不透明で、日本からの渡航すら簡単にできなくなるかもしれないという憶測もあり、そうなる前に100年続いたものが終焉を迎えていくその様を見ておきたかった、ということが1つ。2つめの理由は、当時の渋谷や原宿で“宇宙百貨”や“大中”*3といった中国製のキッチュな商品を扱う雑貨店が繁盛していて、そういう商品を本場で買いたいという思いからであった。1996年の香港旅行ではアンティーク店が並ぶ路地裏を歩き、粗悪なザラザラの紙にイラストが印刷されたノート、石に手彫りで作ってもらったハンコ、英国から渡ってきたアンティークアクセサリーなどを買った思い出がある。そして、その時ビクトリアピークから見た香港の夜景は、林立する高層マンションが3Ð映画のように迫りくる迫力で、“香港100万ドルの夜景”もまだ十分その他の都市を引き離して燦然と輝いていた。私の記憶では21年前の日本では高層ビルは新宿西口高層ビル群しかなく、そこから見る東京の夜景は平面的ですごくあっさりしていた。また、ブルース・リーやジャッキー・チェンの香港映画をはじめ、オリエンタルな香港独自文化が今よりもっと輝き、世界中の観光客を魅了していたし、“東洋の神秘”*4として憧れの眼差しで見られていた。当時はまだ、帆船や屋形船のような粗末な小舟がビクトリ湾を行き交う様が宿泊したホテルの高層階の窓から見てとれた。
香港の、狭い土地に高層ビルが林立している景色が素直に凄いと思ったし、古くから存在している飲食店や屋台、生命力溢れる雑多な人々が行き交う地上の街並みと奇妙に共存し、非常にフォトジェニックな街でもあった。香港でしか見られないもの、手に入らないものは、1996年までは確かにあった。中国マネーが席巻する前の香港は、英国統治時代の古いレトロな状態がタイムカプセルのようにそのままの形でまだ残っていて、高層ビル群とそれらが共存する面白さがあった。そこにはグローバル化が加速していく前の香港独自の世界が輝いていた。
*1 香港1997年7月1日、澳門1999年12月20日中華人民共和国へ返還された。
*2 ポルトガルが得たのは統治権のみであり、澳門の主権はあくまで中国(清)側にあった。
*3 “宇宙百貨”“大中”人民服、カンフーシューズ、竹籠バッグ、ビーズの布製シューズ、毛沢東のピンバッチやチープな食器、アジアン家具など、中国製品を安価で売っていた店。ブランド品であふれていたバブル時代に異色の店で、10~20代の女性に人気があった。
*4 “東洋の神秘” カンフー、空手や柔道、少林寺拳法をはじめとする柔術とその精神世界、禅・東洋哲学など、東洋で生まれたものが西洋人には神秘的に映っていた。
▼宿泊したホテル28階の部屋からの眺め
2017年香港
今回の旅行では21年前と比べて、“東洋と西洋がほどよくブレンドされていた香港”が、“英国の雰囲気が大分弱くなり、中国パワーに圧倒されて中国色が強くなっている”と感じた。21年前までは確かに残っていた英国統治時代の前近代的、アナログ的、神秘的な雰囲気がかなり減ってしまった印象である。香港でも澳門でも、安い中国製のお菓子やグッズが売られているお土産物屋と、それとは真逆な中国富裕層向けの世界的高級ブランドの店が建ち並び、そこに本土からの中国人観光客が大挙して押しかけていた。その光景は最近の都内のマツキヨやユニクロ、はたまた銀座の高級ブランド店に観光客が大勢いる様と一緒であった。香港にいて、銀座のホコ天にいる錯覚に陥った。香港名物2階建てバスの現地バスガイドさんからは、「香港名物だった、道路にはみ出る横看板もどんどん消えています」と説明があった。
21年前に感動した百万ドルの夜景にしても、今や上海やシンガポールをはじめとしたアジアの諸都市、そして日本においても高層ビルが林立し、公共施設である都庁からも迫力の夜景を見ることができるようになった。残念ながら香港でしか味わえない非日常の光景というわけでもなくなってしまった。21年前に訪れた“キャットストリート(骨董通り)”や“印鑑通り”に今回再訪したが、明らかに魅力が落ちていた。店の数も品数も、訪れる人の数も。エキゾチックかつ西洋と東洋が織り交ざった“神秘的な街香港”は薄れてしまった。この20年で中国が圧倒的な経済力を持った影響と*5、街のインフラ等がグローバル化し、日本中どこへ行ってもミニ東京化しているように、先進国どこへ行っても似たような近代的な風景に標準化しつつあるためなのか。租界時代のものは、“観光資源”として“残して”はいるが、そのオリジナリティを活かしきれてない。経済的、人的に圧倒的な中国パワーが、香港の街の独自性を奪っているように思えた。*6
*5 1997年以降、特に2013年から中国マネーが大量に席巻してからは中国と香港のパワーバランスは大きく変化し、香港が中国に対する相対的な優位性を失った。「中国の『最前線』はいま」世界8月号 川島真・倉田徹・福田円「座談会 民主と自由の最前線」
*6 香港人口 1997年 649万人 2017年 737万人 (中国本土より88万人が移住) 中国本土からの観光客 1997年 229万人 2017年 4277万人 (約18倍) 未来世紀ジパング
▼横看板とSKY100
これからの香港
政治的にも経済的にも、マンパワーでも中国との力関係、距離の取り方は難しい立場である香港。このまま中国化していく一方なのであろうか。新しい魅力を創り出さねば観光地としての香港のオリジナリティは薄くなるばかりであろう。新しい技術(高層ビルの建設など)はどんどん更新されていき、追いつき追い越され、やがてどこでも同じ景色になる。それに対してその土地がたどってきた歴史は多様で個性がある。一国二制度*7があと30年続いたとしても、統治時代の面影は減っていくのであろうが、100年間の英国統治時代は香港独自のもので、世界中他のどこにもない歴史である。屈辱的な歴史なのかもしれないが、中国本土より先に繁栄した良い面もあったと思う。それを乗り越え、その歴史をも飲み込んだ今だからこそ、財産として活かしていくのが香港の魅力を増す一つの方法かと思う。英国統治時代の優雅で上品な面と雑多な生命力溢れる人々とをミックスした香港を、今後もずっと残してもらいたいと願うのはノスタルジー好きな私だけであろうか。
*7 中国は「一国二制度」を唱え、返還から50年は香港で中国とは異なる政治や経済の制度を保証するとした。朝日新聞「自由な未来描けぬ香港」益満雄一郎2017.6.27
▼寺院と高層マンション