STUDY研究活動・社会貢献
大阪の河川について
森井 寛朗 (HIROO MORII)
大阪は水の都といわれるほど水運が発達していた都市である。市内には淀川をはじめとした河川や観光名所の道頓堀川など、大小さまざまな河川や運河が存在する。今回、研修で訪れた「うめきた」周辺には大川が流れており、中洲に市役所や中之島公会堂など、市のシンボル的な施設が集中しており、大阪市の中心的な場所となっている。
大阪の地形
大阪の水運の歴史的な成り立ちをみると、元々は下記に詳しく記しているような場所であったようだ。
太古、大阪は海の下にあった。 現在の市内都心部の大半は大阪湾の底であり、わずかに上町台地の丘陵が半島のように陸上に顔を出すのみであった。 やがて、淀川が運ぶ土砂が河口に堆積し、上町台地の東に河内湖と呼ばれる巨大な湖をつくり、さらに5世紀以降の治水事業を経て新たな陸地が生まれた。 ここに都市大阪の起源となる難波津の都が置かれた。645 年のことである。 大阪は、水が生み出したまちである。*1
今回、関西国際空港から大阪駅とへ至る車窓からの眺めは、起伏がなくいたって平地が続く光景であった。
*1 大阪ブランド資源報告書「世界に誇る水都・大阪」公益財団法人 関西・大阪21世紀協会
▼近世の大阪の堀・河川 出典:「水都大阪」(水上交易の中心都市)HP
戦後の大阪の河川
大阪は秀吉が政権をとった頃、都市開発に着手し、大阪城の築城と同時に外濠としての東横堀川や、街路、下水道を整備し、城下町の骨格を形成し、商人たちによって堀川の開削が行われ、船場など「水の都」と呼ばれる街の原型ができたのはこの時代であるようだ。 いくつも流れる堀川は、市中の物流の動脈として「天下の台所」といわれるように、重要な役割を担っていた。以後300年余り利用されてきた水路である。 1684年に水害対策として開削した安治川は、海と市中を結び、木津川とともに港の中心となった。大阪は北前船や樽回船が運搬する積荷のハブ機能として、また、加工して京都や奈良へと荷物が運ばれて行ったとのことである。*2
▼高速道路が覆いかぶさる東横堀川 出典:「水都大阪」(水上交易の中心都市)HP
▼整備された道頓堀川 出典:大阪市HP
近世における大阪の水運
戦後の大阪は「第二次世界大戦後、急速な経済発展に伴う地下水汲み上げにより、もともと低地だった大阪の地盤はさらに低下したため、度重なる水害に遭ってきた沿岸部の高潮対策として、防潮堤が築かれた。」*2とあるように、現在においても市内のほとんどの河川はコンクリートの護岸で構築されている。
したがって「水害対策は実現できたものの、無機質なコンクリートの護岸が水辺と陸を分断し、人々は川との接点を失い、水辺への関心を失っていった。」*2ということである。
「運搬の主流が鉄道や車に移ると共に役割を失いつつあった堀川が次々と埋め立てられて道路となり、もしくは高速道路に覆われ、水都としての姿を消失させていった。やがて、高度経済成長とともに急速に拡大した経済活動と人口増加に伴う生活排水や工場排水が河川に流れ込んだことによって水質は悪化し、人々は水辺から顔を背けるようになる。 かつて大阪で暮らす人々が水辺に親しんだ姿は影をひそめ、人々の生活から水辺が遠のいていった。」*2とあるように、以前、大阪を訪れて水辺として認識したのは淀川と道頓堀くらいしかなかった。 しかし、近年、行政や民間の動きとして道頓堀川の浄化など、にぎわいのある水辺の拠点整備が進められており、水の回廊として、川で人をつなぐような様々なイベントなどが行われているようである。
今度、大阪に行った際は、遊覧船に乗り水上から大阪のまちの景観をぜひとも見てみたい。
*2 出典:「水都大阪」(水上交易の中心都市)HPより
▼難波橋から中之島をみる
▼土佐堀川を進む遊覧船