STUDY研究活動・社会貢献
地震教育園區 -地震から何を学ぶか-
色川 善一 (ZEN-ICHI IROKAWA)
台湾を訪れるのは3度目である。最初に訪問したのは1995年1月中旬。自動車の排気ガスや交通マナーや歩道の設えの悪さなど、正直、街を歩いて楽しかった記憶はあまりなかった。そして、昨年の11月、そして5月と訪問して感じたことは、近代化された国際都市への変貌である。まさにコスモポリタン(cosmopolitan)台北、台中であった。
一方で今回を含めて感じたのはヴァナキュラー(vernacular)な建築や街並みをいたるところで見ることができ、その土地や地域の固有の気候風土の中で培われてきた建築・ 建物(様式)などを大切にしている点も台湾を訪問する楽しさかもしれない。また、親日的な人々が多く、また、美味しい台湾料理の数々がさらに台湾を魅力的にさせてくれた。
今回は、伊東豊雄氏が設計した台中メトロポリタンオペラハウスなど、印象に残った視察場所も多かったが、東日本大震災以降、取り組んでいる復興支援との関係もあり、一番、印象が強く残った「地震教育園區」を紹介しながら、震災から何を学び専門家として何を考えていくべきかをまとめてみた。
地震教育園區
1999年9月21日未明、台湾中部で大震災が発生し、死亡者2,415人、行方不明者29人、重軽傷者11,305人という大惨事が起こった。
この施設は、被災にあった霧峰光復中学校敷地を中心に、断層のずれ、校舎の崩壊、河床の隆起等を後世に伝え、地震教育の生きた教材にしようという試みで整備されたものである。災害の起源を知り、正確な防災知識を高めることで、安心・安全を学ぶことができる場所である。
学芸員の話によると、この施設の特徴として下記の2点にあるようだ。
・この場所は廃棄物などの埋め立てによってできた場所で、かつ、断層が走っており、学校などを建てる場所としては、ふさわしくない土地柄であったことを次代に伝えること。
・ずさんな建築工事により被害が拡大したことを踏まえて、新たな構造基準や工法の見直しが行われたことを、被災した小学校をそのまま保存することで、問題を視覚化して保全すること。
また、「東日本大震災では、震災遺構を保存することの賛否があり、次代へどう継承するか議論が分かれている」ことについて意見を求めると、「言葉や文章、写真だけでは、被災の本質を後世に伝えることは困難である。被災者の気持ちに寄り添うことは大切だが、事実を正しく伝えることの努力は、さらに重要ではないか。」というコメントをいただいた。ちなみに、台湾中部の地震は未明のできごとであり、学校内での生徒達の被災はなかった。このことは東日本大震災とは異なる状況であったことも記しておきたい。
▼車籠埔断層保存館
▼地震工学教育館 損壊教室エリア
▼南三陸町防災庁舎(宮城県)
阪神淡路大震災から20年経ち、考えることは何か
2015年01月17日早朝に発生した地震に大きな災害が発生した。道路,鉄道など交通網、ガス、水道、電気などのライフライン施設が寸断されたほか,護岸,港湾施設などが破壊され、また、火災による大災害がさらに被害を拡大させてしまった。
▼震災直後の神戸
実は台湾旅行から帰国した翌朝の出来事であり、テレビにかじりついて見入っていたことを今でも鮮明に覚えている。
神戸市は、何かにつけ都市計画の良いお手本として取り上げられたが、震災から1週間ほどで訪れた際に、地震に対してこれほど無防備であったとは想像することができず、呆然としたことを今でも記憶している。
この事実を後世に正しく伝えるため、建築物被害の状況を把握するために関西にある8大学が被災状況の緊急調査を行った。神戸芸術工科大学に先輩がいたことから、震災の記録をGISデータで管理しようと神戸に通ったが、当時としては画期的な試みも結果的には頓挫してしまったことが今でも残念である。 しかし、この被災状況調査からいろいろなことが分かってきた。その一つを紹介するために掲載したのが、「明治期の集落分布と被災状況」である。図面のピンク色で着色してある区域が、倒壊した建築物が80%を越える街区である。一方、オレンジ色で着色してあるエリアは、明治18年大日本帝国陸軍迅速図に示された集落地である。ほとんど重なっていないことが分かる。明治期以前に形成された集落は幾度にわたる災害の経験を活かした立地選定を行い、より安全な居住環境の場を形成してきたといえよう。この解析結果は、土木技術の進歩とともに、人口増加や産業力の向上などの開発圧力を科学的にかつ適正にコントロールする計画論を置き去りにしてしまった事実を、専門家として深く認識する必要があると思う。
▼明治期の集落分布と被災状況
東日本大震災から学ぶことは何か
2011年(平成23年)3月11日14時46分過ぎ、宮城県東南東沖130kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。最大震度は震度7、首都圏でも最大震度6強の強い揺れを観測した。この地震により、場所によっては波高10m以上にも上る巨大な津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生したことは、生々しい記憶として残っている。
東北を中心にしたこの地域は、昔から、津波の被害と向き合ってきたが、残念ながら多くの被害をもたらす結果となってしまった。ここでも、都市化の流れの中で、場所の持つ意味を取り違えたまちづくりをがあったことが分かった。
下の図(A)は、江戸時代の古地図等から読み取った宮城県南三陸町志津川の海岸線の様子である。水色で塗られた区域は、豊かな漁場をひかえた入り江として、また、自然 豊かな湿地帯等が広がっていたと思われる。
▼1600年代の志津川(A)
また、図(B)の赤く塗りつぶした区域は、東日本大震災時の津波被災区域である。明治以降、土木技術の進歩等で生産の場、生 活の場として入り江や湿地帯を埋立て街が広がっていった。そして高い防潮堤で守られていたかに見えた街は、ほぼ全域が被災地となってしまったのである。
▼東日本大震災での津波浸水区域(B)
▼震災直後の志津川
▼数カ月後の志津川
新しい視点での提案
マサチューセッツ工科大学神田駿先生は、数年間のフィールドワークをもとにした、これまでの復興計画にはない、新しい視点での震災復興のあり方を提案されている。地域の未来を見据えた地に足が着いた計画であると考えるが、このような提案が何故か受入れられない。
多くの震災復興計画の典型は、下(上段)の写真のように周囲の山を削り、嵩上げにより市街地を復元させる計画や下(下段)の写真のように、結果として自然の力を制御することができなかった防潮堤をさらに高くして、暮らしの場、生産の場を低地部へ、そして、住宅地を高台へという分散型の復興計画である。分散した街をどういう手段で結ぶのか、将来の人口減少、高齢化社会への課題をどう考えるのかなど十分な検討がないまま、土木工事だけが進んで状況である。果たして「街」はできるのか。
神田駿先生の「3つの思想」の提案を簡単に紹介させていただく。
□一つめの思想
・土地本来の生態系を優先した持続可能な未来像を想像する
□二つめの思想
・湾が見下ろせる 津波から安全に海を眺める 住宅地 -水面から20mの安全な地盤にこれからの生活軸の位置づける
□三つめの思想
・標高20mに点在する街は、多様性にとんだ小さな社会、三世代が共に生活する場をつくる
・東北文化にほれて、国内外からスローライフを求め て訪れる人々が暮らす場をつくる
・そこにはメガ・モールはなく、スマートカー、モバイルテクノロジーが生活を支え、生業が継続され住民の力で徐々に創造された静かな暮らしの場-みんなの舞台をつくる
自然にどう向かい合い、新しい街をつくるか
神田先生の提案のように津波被害を受けた区域は、時間をかけて少しずつ湿地帯に復元しつつ、エコ・ミュージアム的な場にすることも大切な考え方である。仮に市街地をもとの場所に再生する必然性が高い場合でも、周囲の自然を破壊して整備する嵩上型市街地、海との関わりを遮断して街をつくる巨大防潮堤型復興案が果たして、望まれるまちづくりなのだろうか。それに変わる自然と共存できる手法による復興案を紹介したい。環境システム研究所原田鎮郎氏の層構造モジュールを使った提案である。特徴は以下の通りである。
○自然を大きくは改変せずに、構造物の設置が可能である。
○津波に強いにピロティ形式。通常時は、市場や公園、広場などに利用できる。
○震度7クラスの地震においても、主骨組を損傷させない構造である。
○標準モジュール化により高品質な構造物を短期間で提供できる。
○用途を変えたりや規模を改変できる、足し算、引き算のまちづくりが可能である。
そして、両氏に共通している点は、基盤はつくるが、後はそこで暮らす人々、自らが、まちをつくっていくという発想である。もどかしい思いが続くが、会社としても個人としても、このような新しい思想を背景にした復興の実現を目指して、粘り強く活動を続けていきたい。